聖書の周辺世界を旅する(2)

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イスタンブール

 イスタンブールのアタチュルク国際空港(現在の国際空港はイスタンブール国際空港)から市内までは25キロメートル、バスで約40分である。
 イスタンブールは、かつての東ローマ帝国の都コンスタンチノープルである。紀元前7世紀にギリシャの植民都市として建設されたこの街は紀元330年コンスタンチィヌス大帝の名に因んだコンスタンティノスの都という意味のコンスタンティノポリスと名を変えた。その前の呼び名はビザンティウムである。東ローマ帝国のことをビザンチン帝国というのはそこから来ている。この都は、東ローマ帝国の学問、芸術、政治、経済を代表する都市だった。紀元5世紀からは地中海世界の中心でありその繁栄は約1000年も続いたが、1453年オスマン・トルコによって滅ぼされたのである。
 当時の城壁が残る現在のイスタンブールは賑やかな街である。老若男女の別なく信号など全くおかまいなく車の間をぬって道を横断するのを見ていると、まるで軽業師の様である。
 新市街のこじんまりしたホテルパークサ・ヒルトンに旅装を解くと、すぐガラタ橋へ行ってみた。イスタンブールは3地区に分かれている。ヨーロッパ側は金角湾を挟んでイスタンブール地区(かつての東ローマ帝国の首都で歴史的建造物が集中しており、旧市街と呼ばれる。)とベイオール地区(中世から近世にかけてジェノア人やベテチア人の居住区があり、ガラタ塔を造ったことで有名。新市街と呼ばれ、官庁、商社、ホテルがあり、日本総領事館もある。)に分けられる。この両地区はガラタ橋とアタチュルク橋で結ばれている。このヨーロッパ側からボスポラス海峡を挟んでアジア側がウスキュダル地区と呼ばれる。ガラタ橋の新市街側にあるカラキョイからフェリーで約15分である。
 市民はよくフェリーを利用する。ボスポラス海峡はマルマラ海と黒海を結ぶ30キロメートルで、狭いところで幅は760メートルもない。新市街とアジア側は第一,第二ボスポラス大橋で結ばれており、特に日本が架けた第二大橋はすこぶる評判が良いと聞いた。
 夕暮れ近いガラタ橋のたもとに佇んでぼんやりと金角湾を眺めていた。湾内の両岸を結ぶ定期船がゆっくりと行き来している。しかし、その昔はこんなに平和ではなかった。この湾に攻め入ろうとするトルコ艦隊とそれを阻止してビザンチン帝国を守ろうとしたイタリアとギリシャの連合艦隊が烈しい攻防を繰り広げたところなのだ。
 歴史への思いは更に馳せる。マルマラ海の北に広がるヨーロッパと南のアジア、この2つの大陸に住む人々は、この海峡を挟んで幾度戦いを繰り返したことだろうか。かのアレキサンドロス大王は、この海を渡ってアジアに侵攻したし逆にペルシャのクセルクセス王はこの海を越えてヨーロッパに攻め込もうとしたではないか…。
 アレキサンドロス王とその軍隊がもたらしたギリシャ文化は、大王の死後もこのアジア地域に深く根をおろし後のヘレニズム文明へと発展した。その一方で、パレスチナからアジアを通ってパウロが携えて行ったキリスト教(パウロは第二伝道旅行で小アジア<トルコ>を横断し、エーゲ海に面したトロアスから船出しネオポリス<ギリシャ>に渡った)は、確実にヨーロッパに根付いて今日のヨーロッパ文明の母体となったのである。
 イスタンブールは今、イスラム文化の都である。しかし底流にはヘレニズムやキリスト教文明があり、アジア的なものとヨーロッパ的なものが混在している。それはトルコ全土についても言えることである。
 定期船が向こうに見える金角湾の二つ目の橋、アタチュルク橋をくぐるころ、通訳兼ガイドのフィリアさんに「行きましょう」と促されて我に返った。「ああ、行こう。」私は立ち上がり、そして彼女について魚料理を食べにレストランに入って行った。そこでのトルコ産の白ワインは美味であった。イスラム教徒のフィリアさんも乾杯に加わってくれた。明日からのアジアとヨーロッパの接点を明らかにする見学地を語り合いながら。

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