キリスト教あれこれ(3)

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敬老の日

 9月18日は敬老の日でした。
 わが国でお年寄りを覚える日が制定されたのは1951(昭和26年)年のことで、その時は「としよりの日」という名称でした。しかし、この名称はひどいのではないかとの議論が起き、老人福祉法が制定された翌1964(昭和39年)年「老人の日」に改称され、1966(昭和41年)年に「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」という法律が制定され、「敬老の日」として国民の祝日になりました。
 人は年をとると、社会でも家庭でも中心的存在ではなくなり、不必要な存在とか、時として邪魔者扱いされたりするので、それが高齢者の欲求不満になったり、淋しさを感じさせるようになります。
 聖書にも老人に配慮する言葉があります。
 「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性は常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」(テモテへの手紙一5:1~2)
この言葉は大伝道者パウロが教会の指導者に書いているのですが、その意図するところは「教会は家族のようであれ」ということであり、老人も教会ではキリストによって結び付けられている神の家族であるという特別な意味が込められているのです。ここで老人という言葉はギリシャ語でプレスビュテロスと言い、年老いた婦人はプレスビュテラという言葉が当てられています。プレスビュテロスは「長老」とも訳すことができることを考えると、長老は教会の中心から外れた片隅に追いやられた存在ではないことは自明のことです。
 従来、「敬老の日」には、高齢者に記念の品物を贈ったり、高齢者だけを集めて長年の功績をたたえる形でのイベントが開催されて参りました。しかし、近年の高齢社会を考える有識者会議での報告書をひも解くと、高齢者の問題は「ケアや社会保障のサービスの提供」の問題にとどまらず、能力や活力のある高齢者の社会参加の場の確保の問題であることが指摘されています。さらに「古い高齢者像」からの決別ということが謳われています。これは高齢者を過去の功労者、社会保障サービスの受給者という社会的弱者という存在にとどめ置いてはならないというものです。
21世紀、高齢者自身が高齢社会の中で積極的に活動し、文化を発信する主体なのだという考えはとても重要であると思います。しかし、老いて「死に向かっていく」人間の高齢期の生活は、決して光に満ちている部分だけではないことも確かです。老いも若きも、隣人を愛するということを高齢社会の結びつきの中で考えていくことが重要なときに来ていると考えています。
敬老の精神とは裏腹な環境が老人を取り巻いている昨今、敬愛の精神を持って長寿を祝うことの意味をもう一度考えてみようではありませんか。

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