聖書の周辺世界を旅する(4)

トプカプ宮殿

 城壁に囲まれ、木々がうっそうと生き茂る70万平方メートルに及ぶ敷地に建つのがトプカプ宮殿である。約400年にわたって、オスマン・トルコ時代のスルタンの居城であった。マルマラ海とボスポラス海峡を見わたす高台にあり、かつては軍事上重要なものだったが、今は宮殿博物館として公開されている。
 この宮殿は現地ではトプ(大砲)、カピ(門)、サライ(宮殿)と呼ばれている。オスマン・トルコ最盛期には4000人とも6000人ともいわれる人々の生活する「町」でもあったのだ。
 宮殿は三つの中庭と、ハレム、図書館、それに現在の考古学博物館、オリエント美術博物館から成っている。それは、宮殿内にあるトプカプ宮殿のミニチュアで確認できる。
 アヤ・ソフィアの東にある帝王門を入るとそこが宮殿の第一の中庭。トプが並んでいる。第二の中庭の右側はかつてのスルタンの調理場。一時1200人もの調理人が働いていたといわれる。今は、中国、日本、ドイツのマイセンの陶磁器、ガラス器が置かれており、柿右衛門の大皿を見ることができる。第三の中庭の右手には宝物館があり、歴代のスルタンの集めた戦利品や献上品が展示されている。純金版で覆われた玉座、サファイアとエメラルドを嵌めた短刀、86カラットのダイヤなど、しばし目を奪われる。この中庭の斜め向かいからハレムである。すべて分厚い絨毯が敷きつめられ、いったい何人の女性が何年かけて織り上げたのか見当もつかない代物である。ある部屋に黒い漆塗りに貝殻細工の施された一見地味なチェストが置かれていた。日本のものと品定めをしてガイドに聞くと、それは明治天皇から贈られたものであるということであった。
 各部屋の中央に日本製品がどんと置かれているのを見ていると、この国の人々がいかに日本びいきであるかと感じるのは筆者ばかりであろうか。また王位についたスルタンはなかなか宮殿の外に出ることができなかったので、こういうものを見て日本に思いをはせていたのではないだろうか。…..
トプカプ宮殿 – Wikipedia

ドルマバフチェ宮殿

 ボスポラス海峡を行く船上から美しい姿が見える建物がドルマ(「埋め立てられた」)バフチェ(「庭」)宮殿(サライとも呼ばれる)である。大理石でできているが、1856年に第31代スルタンによって建てられた時は、木造宮殿であったという。宮殿内に入るとその派手で豪華なことに目を奪われる。調度品の多くはヨーロッパからの献上品で当時のトルコの勢力が偲ばれる。
 宮殿に入って間もなく気づかされるのは9時5分を指したままになっている時計があることである。その理由はトルコが共和制になって、この宮殿は初代大統領アタチェルクが官邸として使用したが、1938年11月10日の同時刻に執務中に亡くなったということから、故人を偲んでトルコんの人々がその時刻のままにしているという。


 トルコにとってアタチェルク(トルコ人の父、または父なるトルコの意)ほど重要な人物はいない。本名はムスタファ・ケマル。軍人であったのでケマル・パシャ(将軍の意)と呼ばれたが、第一次大戦後スルタン制を廃止。1923年、共和国宣言をし初代大統領に就任した。彼はアンカラを首都と定め、イスラム(スンニ派)国家を目指したが宗教とい政治を分離し、他のイスラム教国と違い非宗教的世俗国家を作り、イスラム経典に基づく諸権利を廃止して、近代化と自立を目指して大改革を行った建国の父であった。また、彼は男女を問わず教育に力を注ぎ、現在西アジアで最も分盲率(約35%)の低い国となっている。
 第一次大戦でトルコはドイツと同盟したため、全アラブ地域を失ったが、本国もギリシャの侵入を受けたのは近代史に著名である。アタチェルクは、ギリシャ軍を撃退した折、国内のキリスト教徒をギリシャに送り出し、ギリシャや関連国からはイスラム教徒を迎え入れたことは有名である。
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