聖書の周辺世界を旅する(11)

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地下都市

 18世紀初期にカッパドキアを訪れ、この魅惑に満ちたその地をヨーロッパに紹介したのは、仏人ポール・ルカスであった。以来、幾多の人がこの地を訪れギョレメの岩窟教会に魅せられてきたことか。「林檎の教会」「蛇の教会」「暗闇の教会」等々。説明の言葉を持たぬ。百聞は一見に如かず。
 ギョレメから14 ~ 15kmネウシェヒルまで戻って、更にそこから20km程南に下るとカイマクルに到達する。もう10km程同じ道を辿るとデリンクユ至る。そして、その二つの地には、壮大な地下都市がある。そこには15000人とも20000人とも言われるキリスト教徒たちが住んでいたと言われる。

 この地に住んだ初期のキリスト教徒はおそらく口一マ帝国による宗教的迫害から逃れて来た人々であったと思えるが、その後はタウロス山脈全域を支配下に置いたアラブ人の支配から逃れるためであった。主に、7世紀から13世紀に渡っている。例外は、11世紀後半に東方からやってきたセルジュクトルコであって、1080年にはイコニウム(現コンヤ) に首都を置いた。彼らはキリスト教に干渉しなかったことから、キリスト教社会とイスラムのセルジュクトルコの関係は友好的であり、キリスト教徒も平和に暮らしていたようである。「蛇の教会」のあるウフララの谷(ベルストレマの谷)のクルクダマルトウ教会にはセルジュクトルコのスルタン、メスド2世が描かれていることはその証明であろう。
 さすれば、キリスト教徒がこの地下都市に隠れ住むようになったのはセルジュクトルコ以前であったことは確かである。カイマクルに関しては、「すでに紀元前5世紀の記述の中で地下に暮らす人々のことが言及されている」とガイドの説明があったので、キリスト教徒は後からやって来てここに住み着き、地下深く、しかもさまざまな工夫や創意のもと拡大していったものと思われる。それほどにアラブの迫害は凄まじいものであった。末裔たちは1920年のトルコとギリシャの人民交換政策でキリスト教徒がこの地を去るまでここで生活した。
 カイマクルとデリンクユの地下都市は双方共石灰岩を掘って地下8階から10階の深さにまで達している。この地が観光のメッカる以前、ここは村人の貯蔵室や納屋としてしか使用されていなかった。これらの地下都市について最初に記したのはギリシャのアテネ出身のクセノフォンであった。彼が地下都市について記すことになったのは次の様なことからであった。
 紀元前404年アルタクセルクセス2世 ( BC404~ 358在位)がベルシャの王位につくと、401年に王位を奪おうとした王弟キュロス(クロス)は、サルディスで傭兵や志願兵の大軍を集めてベルシャに向かった。その時クセノフォンはギリシャ兵の一人として遠征に加わり、各地の様子を細かく書き残した。

 「・・・・家々は地下に作られている。入り口はまるで井戸のように低く下に向かって広げられている。家畜のためにはト 
 ンネルがあり、人間ははしごを使っている。家の中に山羊、羊、牛やにわとりが飼われている。大きな壷には、ワインがな
 みなみと入っていて、のどがかわいたものはだれでも、そのそばの葦をとってワインを吸うことができる。ワインは水でう  
 すめないとかなり強いが慣れてくると、気の利いた飲み物である。・・・」

 これはキリスト教徒が住みつくずっと以前の様子である。このクセノフォンの記述の片鱗でも残っているだろうか。またキリスト者たちは地下都市の生活機能をどのように整えていったのか、さまざまな興味をもってこの両都市を訪れた。両都市共似た様な構造になっており、入り口から入って矢印にそって進むように順路が印されているが、いかに注意深く歩いてもすぐ道に迷ってしまう。特にカイマクルでは長短のさまざまな狭いトンネルが四方八方に延びていて、しかもうす暗い電燈のあかりではすぐ自分がどこにいるか不明になる。絶対ガイドが必要である。
 地下都市カイマクルとデリンクユは同じような構造で地下8階まであるが、見学可能なのはカイマクルが4階まで、デリンクュは8階までである。共に蟻の巣のように地下へ細い通路が地底へ降りて行き、各階はその通路でつながっている。それら通路に敵が襲ってきた場合に備えて所々に1 ~ 1.5mの石日状の石板で造った扉を用意してあり、いざという時には石にあけられた穴につつかい棒を差し込んで軸とすれば重い石を容易に転がして通路を完全に塞ぐことが出来た。特にカイマクルではその通路は 30kmにも延び、優に1万5千~ 2万人の人々が生活出来た。また地表から地底の貯水槽まで延びる垂直な穴が換気孔の役割を果たして常に新鮮な空気をとりこむようになっていた。
 両都市に共通するのは排煙の工夫である。立ち昇る煙は敵の目につきやすい。そこで直接外に排煙しない工夫がなされていて人々の用心深さが偲ばれる。教会、墓地、集会場、ワインを作る場所と貯蔵庫、居間と寝室、台所、倉庫、食糧貯蔵庫等、日常生活に必要なあらゆる機能がこの地下都市には備えられている。因みに地下都市デリンクユは総面積4平方kmに約2万人を収容できたと推定されているが、地下1階に寝室、食堂、台所、ワイン倉と馬屋、地下2 階には祭壇のある教会から墓地(宗教行事のためのカタコンべでもあった)、3階・4階には台所、避難所、学校、聖品置き場(洗礼盤が置かれていた)がある。換気孔は52ヶ所。水は一番下の部分に貯えられており、そこまで降りるには地上から90mもある。
 これらの地下都市には木材で作った家具は全く見当たらない。べッドやテープル、棚などの家具はすべて石を掘ったり削ったりして作ってあり、石のべッドには人間の型にへこんだものもあった。
 このように完全な生活機能を備えた地下都市で人々は地上と全く同じ生活をしていたことがよくわかる。地上での産物を人目につかず運び入れる苦労はいかばかりであったろうか。
 カバドキア滞在中にマズキョイの地下都市も、地下4階までの発掘が終わり見学可能になったことを聞いた。この地方には同じような地下都市が30もあるというが真偽の程はわからない。

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