平和への思い
1948年の「世界教会協議会アムステルダム会議」で戦争は神の意志に反することが決議されて以降、「主よ、私をあなたの平和の器とならせてください」(第一次大戦前フランスで「フランチェスコの祈り」と呼ばれるようになった)との祈りが、キリスト教において、今日、ますます重要になっている。
「平和」という言葉からまず思い出されるのは、道教、ジャイナ教、仏教などのアジアの宗教の理解であろう。その教えの根幹には節制、不殺生、非暴力などの平和主義がある。また、それら平和主義にロシアの文豪トルストイのキリスト教的な受動的抵抗の思想から影響を受けたと言われるマハトマ・ガンジーの非暴力的寛容(アヒンサー)と不服従運動(サティヤーグラハ)は著名である。
一方、西欧での平和理解はどのようなものであったか。古代ギリシャやローマでは、例外的にヘシオドスやアリストパネスなどの反戦・平和主義者はいたものの、一般的に「平和」は戦争の欠如という消極的な意味でしか用いられなかったようである。戦争が英雄的な徳の顕示の場であったとすれば、当然のことであったかもしれない。
聖書において「平和」「平安」などと訳されている言葉は旧約聖書(ヘブライ語)では「シャローム」であり、新約聖書ではギリシャ語で「エイレネー」と言った。平和・平安はイスラエルの古くからの理想であり、詩編の中にも「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34:15)と歌われているとおりである。やがてパレスチナが戦乱の巷となると平和は神が与える平和という考えを持つようになる(詩編4:9、119:165)。この神の与える平和は後に神の国待望の核心となった(民数記6:26)。
イエス・キリストもまたこの旧約の考えを継承し「平和を実現する人」を祝福された(マタイによる福音書5:9)。イエスの与えられる平和は、罪を犯して道を失った者が再び神と和解させられることに基づく魂の平安による平和であった。
平和とは私たちの最も善きものを育てるすべてのものを指す。
イエスの与える平和は、問題を克服する平和、人生のいかなるものも私たちから奪い去ることのない平和であり、外的環境に左右されない平和である。
イエスの弟子たちは、古来日常の挨拶の言葉であったシャロームをギリシャ語のエイレネーを用いて、その意味を一層深めて、神が教会に賜る平和を祈願する言葉としたのである。(コリントの信徒への手紙一 1:3、ガラテヤの信徒への手紙1:3等)。